本日(4日)の日経新聞(iPhone版)には、「変わる採用 (下)グローバル競争過熱 企業も大学も改革急務」、「教育を変えるとき 世界で競える個性豊かな『人』づくりを」という2つの記事が掲載されています。
内容は、日本企業が今後海外で積極的に展開していくためには、グローバルな人材が必要とされている。そのようなグローバルな人材は日本人である必要はなく、企業の中には外国人の採用比率の割合を増やしているところもある。そこで日本も世界に通用するグローバルな人材の養成が企業のみならず教育の場でも求められる云々、というものです。
こういった主張は日経に限らず、最近日本国内メディアでしばしば見ることができる論調です。
このような主張がなされるようになった背景には、日本国内でグローバリゼーションに対する認識の変化が起こっていることにあるのではないかと、私は考えます。
グローバリゼーションの定義は様々ですが、ここでは大まかに、冷戦終結以降、アメリカを中心にする新自由主義経済的な考え方に基づく資本主義の世界的な拡大、としておきます。
実際に冷戦終結以降、アメリカの経済は好況の波に乗り順調な成長を成し遂げ、それは2008年のリーマンショックまで続きました。それに対して日本はバブル経済崩壊からなかなか抜け出すことができない失われた10年と呼ばれた深刻な不況に陥っていました。
当時の日本(冷戦崩壊後からリーマンショックまで)は、アメリカ主導のグローバリゼーションに対して、それに適応するのは必然のトレンドと感じつつも、それに対する抵抗感も強く残っていたと思います。IT革命や英語教育の重要性が吹聴されたのは前者の例でありましょうし(実際に使える英語を重視する教育は大学レベルでも積極的に取り入れられるようになりました)、日本企業の買収を積極的に行う外資に対して「ハゲタカ・ファンド」なる形容詞が与えられたり、「反グローバリゼーション」や「代替グローバリゼーション」と呼ばれたイデオロギー的に反発する意見(これは日本だけではありませんが)がでたりしたことは後者の例でしょう。
こうした日本国内のグローバリゼーションに対するアンビバレントな風潮に一定の方向性が与えたのが、小泉構造改革でしょう。これによって日本はアメリカ主導のグローバリゼーションに積極的な方向へと舵を取ることになります。しかしこの構造改革も、「格差の問題」を提起され、イデオロギー的な反発を受けます。
ところがこうしたグローバリゼーションをめぐる認識は、2008年に発生したリーマンショックにより大きく転換させられることを余儀なくされます。BRICsの台頭やG20の開催に象徴的なように、アメリカだけ、あるいは西欧先進国を見ていればよい時代が終わったのです。
これ以降じゃないでしょうか。日本国内でグローバル人材なるものが積極的に唱えられるようになったのは。
もっとも、何をいまさら、という感じがしないでもありません。人材のグローバルな獲得競争はリーマンショック以前から始まっています。スポーツでみても、アメリカの大リーグをみれば一目瞭然でしょう。
こうした日本の遅れの背景には、日本が陥っていた二項対立(ディコトミー)にあるのではないかと思います。2002年末に4年間のフランス滞在(途中一時帰国しましたが)を終えて日本に戻ってきてみると、日本国内の内向きな風潮に驚いた記憶があります。国際社会への関心はアメリカを通してであり,それ以外の世界は東アジア・東南アジアには直接目を向けているようでしたが、それ以外に関心を持っていないようでした(もちろん日本人全員がそうであるわけではありませんが)。つまりディコトミーとは日本かアメリカか(正確に言えばアメリカ主導のグローバリゼーションかでしょうが)、バブルの成功体験からなかなか抜け出せずいつまでも日本が一番とナショナリズム的な感情に浸る人々と、アメリカに依存していれば大丈夫であるからもっとアメリカへ依存することでグローバル化せよという人々という大きく二つの流れがあったように思います。
リーマンショックが日本にもたらしたのは、この二項対立が根底から打ち消されたことです。
この変化がもたらされたのは、中国の台頭に象徴される西欧先進諸国以外の国々の経済的な発展を目の当たりにして、もはや日本が一番とは言い切れなくなり、またその上アメリカに経済的に頼り続けることが無理なことが分かったからです。
グローバル人材への希求は避けて通ることができないことができないと思います。ただしそれは現在すでに世界で行われているグローバルな人材争奪戦へ参加することを意味します。企業は本当にそれだけの覚悟はあるのでしょうか。日本でいう外資のように給与で魅了するようなことを日本企業はできるのでしょうか。日経の記事は個性豊かな「人」づくりを主張していますが、それがいかにこれまでの日本のやり方に異質なことは明らかです。日本企業のメリットは、企業の人材一人一人の個性ではなく、優秀な従業員が多く集っての組織の力にあったわけですから。外国人が日本人のように会社の駒としてその個人的な能力をどこまで使い続けてくれるのか分からないのではないでしょうか。即戦力としての外国人に安易に頼るのではなく、日本人の育成にも目を向ける必要が再度叫ばれるでしょう。
またグローバル人材といいながら、結局は単なる英語使いが求められているようにも思います。これではリーマンショック以前のグローバリゼーションへの認識と変わりません。グローバル人材なる者は、道具としての英語だけではなく、アジアをはじめとする現地の人々への深い理解、つまり異文化への理解が必要とされるでしょう。異文化は日本人が現地に滞在することで経験上学べることではありますが、日本自体が今のような国際社会に対して閉鎖的な状況にあり続けるのであるなら、異文化への適応や理解に多くの時間がかかるだけではなく、異文化に対する抵抗感も高いままなのではないでしょうか。
グローバル化やグローバル人材の養成を本当に進めるのであれば企業の生き残り、という視点だけでは不十分だと思います。闇雲に議論を拡大するのは無責任かもしれませんが、グローバル化に対しては企業のみならず国全体としても取り組むべきと考えます。