2011年6月3日金曜日

不信任決議案は否決されましたが

内閣不信任決議案、否決されました。

私は管内閣支持者ではありません。震災以後の管内閣の数々の不手際には呆れたこともあります。

でも、この時期に内閣不信任決議案、出しますかねぇ。

この時期に変えたって仕方がないんではないでしょうか、首相を。

報道を見る限りでは、被災者の方々は、おおむねこの内閣不信任決議案に否定的でした。

当然ですよ。常軌を逸していますよ。この時期に。

しかも提出の理由が、国益を損なう、です。国益? そんなことよりも被災にあわれた方々の生活を取り戻すほうが先ではないでしょうか。こういったことも国益で言い換えることができるのでしょうか? 

自民党と公明党、彼らがなぜ前回の衆議院選挙で負けたのか、やはりわかっていないんでしょうか。

国民を無視して、自分たちのことばかり考えていたからではないでしょうか。

今回も同じですはないですか。権力奪取に目が眩んだとしか、傍から見えないです。何もよい印象はないです。

与党としての経験、政権運営の経験、こういったことを豊富に蓄積している日本で唯一の政党が自民党であると思っています。その経験が今回のような震災で十分に発揮されることを期待していました。でも結局は永田町の中に活動が矮小化されているように見えます。

日本は大変な状況にあります。遺恨はいろいろとあるでしょうが、どうしてこういう時に協力できないのでしょうか。なんで海外からは一丸となって支援が来ているのに、日本の政治家は一丸となれないのか。残念で仕方ありません。

2011年4月27日水曜日

S&Pって?

日経の本日付夕刊によれば、S&Pは日本国債の格付け見通しを下げた、とのことである。その根拠としてS&Pは、震災にる復旧・復興費用に多額の支出が見込まれ、財政再建策が打ち出されない限り、財政赤字が進むと、したようである。この論理はごもっともなのかもしれない。しかし、ここに人間の顔はない。現在の東北の災害の状況をみた人間の視点で判断されたと思うことはできない。機械のようなロボットのような冷徹な分析である。

これでいいのか? 確かに復旧・復興のための財政的な後ろ盾は必須である。でも何故まだ苦しんでいる人々が多い状況で、こんな冷酷な仕打ちをするのか。

「友だち」作戦によって、日本人にとってアメリカの印象は大きくアップしたのではなかろうか。実際にアメリカからの協力(アメリカ以外も含めてだが)は大変有難い。しかしこのS&Pはアメリカの会社である。もちろん政府と民間の区別はある。ただし、こうした心ない格付け会社によって、アメリカのイメージは悪くなるかもしれないのではないか?

そもそも格付け会社っていったい誰のためにあるのであろうか。どうして一部の投資家(政府も含むが)のための情報に、困難に直面している国民が振り回されなければならないのか?

ここまでの議論は全く感情的である。でもいいではないか、感情的で、と思う。こんな理不尽なグローバリゼーションなんて人類のためになるのであろうか。

天災まで投機の対象とする・・・情けない。

2011年3月4日金曜日

グローバリゼーションに対する認識の変化

本日(4日)の日経新聞(iPhone版)には、「変わる採用 (下)グローバル競争過熱 企業も大学も改革急務」、「教育を変えるとき 世界で競える個性豊かな『人』づくりを」という2つの記事が掲載されています。

内容は、日本企業が今後海外で積極的に展開していくためには、グローバルな人材が必要とされている。そのようなグローバルな人材は日本人である必要はなく、企業の中には外国人の採用比率の割合を増やしているところもある。そこで日本も世界に通用するグローバルな人材の養成が企業のみならず教育の場でも求められる云々、というものです。

こういった主張は日経に限らず、最近日本国内メディアでしばしば見ることができる論調です。

このような主張がなされるようになった背景には、日本国内でグローバリゼーションに対する認識の変化が起こっていることにあるのではないかと、私は考えます。

グローバリゼーションの定義は様々ですが、ここでは大まかに、冷戦終結以降、アメリカを中心にする新自由主義経済的な考え方に基づく資本主義の世界的な拡大、としておきます。

実際に冷戦終結以降、アメリカの経済は好況の波に乗り順調な成長を成し遂げ、それは2008年のリーマンショックまで続きました。それに対して日本はバブル経済崩壊からなかなか抜け出すことができない失われた10年と呼ばれた深刻な不況に陥っていました。

当時の日本(冷戦崩壊後からリーマンショックまで)は、アメリカ主導のグローバリゼーションに対して、それに適応するのは必然のトレンドと感じつつも、それに対する抵抗感も強く残っていたと思います。IT革命や英語教育の重要性が吹聴されたのは前者の例でありましょうし(実際に使える英語を重視する教育は大学レベルでも積極的に取り入れられるようになりました)、日本企業の買収を積極的に行う外資に対して「ハゲタカ・ファンド」なる形容詞が与えられたり、「反グローバリゼーション」や「代替グローバリゼーション」と呼ばれたイデオロギー的に反発する意見(これは日本だけではありませんが)がでたりしたことは後者の例でしょう。

こうした日本国内のグローバリゼーションに対するアンビバレントな風潮に一定の方向性が与えたのが、小泉構造改革でしょう。これによって日本はアメリカ主導のグローバリゼーションに積極的な方向へと舵を取ることになります。しかしこの構造改革も、「格差の問題」を提起され、イデオロギー的な反発を受けます。

ところがこうしたグローバリゼーションをめぐる認識は、2008年に発生したリーマンショックにより大きく転換させられることを余儀なくされます。BRICsの台頭やG20の開催に象徴的なように、アメリカだけ、あるいは西欧先進国を見ていればよい時代が終わったのです。

これ以降じゃないでしょうか。日本国内でグローバル人材なるものが積極的に唱えられるようになったのは。

もっとも、何をいまさら、という感じがしないでもありません。人材のグローバルな獲得競争はリーマンショック以前から始まっています。スポーツでみても、アメリカの大リーグをみれば一目瞭然でしょう。

こうした日本の遅れの背景には、日本が陥っていた二項対立(ディコトミー)にあるのではないかと思います。2002年末に4年間のフランス滞在(途中一時帰国しましたが)を終えて日本に戻ってきてみると、日本国内の内向きな風潮に驚いた記憶があります。国際社会への関心はアメリカを通してであり,それ以外の世界は東アジア・東南アジアには直接目を向けているようでしたが、それ以外に関心を持っていないようでした(もちろん日本人全員がそうであるわけではありませんが)。つまりディコトミーとは日本かアメリカか(正確に言えばアメリカ主導のグローバリゼーションかでしょうが)、バブルの成功体験からなかなか抜け出せずいつまでも日本が一番とナショナリズム的な感情に浸る人々と、アメリカに依存していれば大丈夫であるからもっとアメリカへ依存することでグローバル化せよという人々という大きく二つの流れがあったように思います。

リーマンショックが日本にもたらしたのは、この二項対立が根底から打ち消されたことです。

この変化がもたらされたのは、中国の台頭に象徴される西欧先進諸国以外の国々の経済的な発展を目の当たりにして、もはや日本が一番とは言い切れなくなり、またその上アメリカに経済的に頼り続けることが無理なことが分かったからです。

グローバル人材への希求は避けて通ることができないことができないと思います。ただしそれは現在すでに世界で行われているグローバルな人材争奪戦へ参加することを意味します。企業は本当にそれだけの覚悟はあるのでしょうか。日本でいう外資のように給与で魅了するようなことを日本企業はできるのでしょうか。日経の記事は個性豊かな「人」づくりを主張していますが、それがいかにこれまでの日本のやり方に異質なことは明らかです。日本企業のメリットは、企業の人材一人一人の個性ではなく、優秀な従業員が多く集っての組織の力にあったわけですから。外国人が日本人のように会社の駒としてその個人的な能力をどこまで使い続けてくれるのか分からないのではないでしょうか。即戦力としての外国人に安易に頼るのではなく、日本人の育成にも目を向ける必要が再度叫ばれるでしょう。

またグローバル人材といいながら、結局は単なる英語使いが求められているようにも思います。これではリーマンショック以前のグローバリゼーションへの認識と変わりません。グローバル人材なる者は、道具としての英語だけではなく、アジアをはじめとする現地の人々への深い理解、つまり異文化への理解が必要とされるでしょう。異文化は日本人が現地に滞在することで経験上学べることではありますが、日本自体が今のような国際社会に対して閉鎖的な状況にあり続けるのであるなら、異文化への適応や理解に多くの時間がかかるだけではなく、異文化に対する抵抗感も高いままなのではないでしょうか。

グローバル化やグローバル人材の養成を本当に進めるのであれば企業の生き残り、という視点だけでは不十分だと思います。闇雲に議論を拡大するのは無責任かもしれませんが、グローバル化に対しては企業のみならず国全体としても取り組むべきと考えます。





2011年2月16日水曜日

コートジボワールは今・・・

中東は盛り上がっていますが、中東が盛り上がったおかげでメディアから(少なくとも日本のメディアから)忘れられている国があります。

西アフリカのコートジボワール。昨年の11月に大統領選挙が行われ野党候補のウワタラが当選となったものの、コートジボワールの憲法評議会はウワタラの当選を無効とし、現職のバグボを当選としてしまいました(憲法評議会のメンバーはバグボに近い人物たちで占められていると伝えられていました)。

国際社会はウワタラの当選を有効とし、バグボに退陣を求めていますが、バグボは全く退陣する気配がありません。アフリカ諸国を中心にバグボに退陣するよう説得しましたが、それでもバグボは大統領の座に居座っています。

まさに袋小路。一時は国際社会から「武力介入を」という声もありましたが、積極的にリスクを背負おうという国はなかなかありません。

そもそもバグボは大統領選挙の実施を延期してきました。ようやく実施されたと思ったらこの有様です。

コートジボワール国内はバグボ支持とウワタラ支持に二分されていますので、チュニジアやエジプトのように独裁政権に国民が一丸となって反旗を翻すということにはなりにくそうですが。

2011年2月14日月曜日

アルジェリアの教訓

実際、アルジェリアでも現在デモが発生しています。
でもその現在進行中のデモとは別に、アルジェリアの過去は、チュニジアから始まった今回の民主化ドミノ騒動で忘れてはいけないと思います。
イスラム原理主義が動く前に軍が動いた。これがチュニジアとエジプトの共通点です。
あるいはイスラム原理主義勢力を動かせないように軍が動いた、と言えるかもしれません。
過去のアルジェリアのケースは全くの逆です。イスラム原理主義が政治の実権を握りそうになってから軍が動いた。軍がイスラム原理主義勢力に対して激烈な掃討作戦を展開し、イスラム原理主義勢力がそれに対抗するという、アルジェリアは未曾有の混乱状況がずっと続いていました。こうしたアルジェリアの混乱は、宗主国であるフランスに飛び火し、パリ、RERサン・ミッシェル駅でのテロ事件等は悲惨な結果をもたらしました。
(世俗的な)軍によるコントロールを確立する。これが今回の事態のキーではなかったでしょうか。軍といっても一枚岩ではないでしょう。イスラム原理主義に近い軍関係者もいたはずでしょう。チュニジアではそういった関係者はエジプトに比べれば少ないでしょうから、エジプトの場合はその辺の見極めが難しかったのではないでしょうか。もちろんムバラクが名誉ある退任を求めたこともあるでしょうけど。
珍しく連続投稿ですね。

最近飲んだワイン



久しぶりにワインネタです。ちょっと気楽なネタいきましょう! 楽しくないとね! 文句ばっかじゃ、いやになりますよね。

それでは、最近飲んで美味しかったものを二つ。最初のがベルノドーの白、次がアラン・グライヨの赤。二本ともフランスのです。赤はローヌ地方のワイン。結構有名な作り手ですが、このキュベは初飲み。結構いけます。シラーを中心に品がよい仕上げです。でも秀逸なのは白。これは尋常ではないですね。ロワールの変わり者としかいいようのない。樹齢百年のシュナン・ブランから収量をしぼってつくられたこのワインの香は素晴らしい・・・。ノン・フィルターなので濁っていますけれど、ちまたで売っている自然派ワインなんて、いかに”自称”自然派なのかわかります。2003年で、もう飲み頃かと思って空けましたが、まだまだ・・・2003はこれだけだけなので、残る在庫は2008、うーん、しばらく飲めないなー。ちなみに二本ともお土産でフランスから買ってきたワインですが、日本でも買えます。日本で買うと結構な値段しますが、フランスで買えばそうでもないんですよ、特に白は。高いワインは美味しくて当たり前、でもワインは高いワインだけではない、が僕のモットーです。語っています・・・

2011年2月9日水曜日

こんな行政で大丈夫か?

居住地の役所で住基カードをつくってきました。

でも、できあがるまでに1時間も待たされる始末・・・

もちろん窓口が混んでいたわけではないですよ。

要は役所の担当の方が、カードの発行手続きの仕方を理解していなかったんですね。

担当の方がカウンターの後ろでどたばたどたばたしているのがみえます

さらには「ここにカードを挿入して パスワードを入力ください」と機械を僕の目の前に持ってくるのですが、パスワードを入力しようにも、その機械にはテンキーがない・・・

僕が「そっちの機械じゃないでしょうか」と指摘する始末。もちろん僕は役所の関係者でないので、どの機械が必要かは知りませんが、そんなもん素人でもわかりますよ。だって向こうの機械にはテンキーがあるんですから。

そんなこんなで、ようやくカード発行

その直接担当した方含め係の方たちは全員(といっても2名だけですが)平謝り

もちろん怒りはしませんでしたよ。なんかその担当の方が気の毒になってきちゃって。

つまり彼は複雑な手順が理解できていなかったのでしょう。そういった方を担当にしてしまうようなことが問題かなとも思いますが。

それよりもむしろ心配になりました。日本のことが・・・(ちょっとオーバーですが)

というのは、日本はこれまで個人の能力よりも集団の能力によって国際社会の中で勝ち上がってきたと思うんですね。日本人は「和」を大切にします。集団行動を優先する教育をしています(学校だけでなく社会でも)。マニュアルがあればそれにきちんとしたがって物事を正確に行うことのできる高い能力を持っていると思います。

でもフランスにいるとフランス人の個々の能力って、日本人よりも高いな、と感じることがありました。まあこれま科学的なデータによって裏付けされているわけではなく、あくまでも印象ですが・・・

卑近な例ですと、レストランです。お昼のランチ時の混んでいるとき、フランスのカフェに入ると、日本に比べると驚くほどの少ない人数で給仕人たちが忙しそうに働いています。彼らが足を止めているときはないでしょう。人数が少ないからと言って、サービスが悪いとか待たされるということは、ほとんどありません。

ところが日本にもどってみると、レストラン(食堂でもいいですが)に給仕人が多いこと。お昼時のピークでも彼らの動きは緩慢です。別に彼らが怠けているといいたいわけではありません。彼らも一生懸命やっているのはわかります。でもフランスのカフェの給仕人たちの機敏な動きをみていると、もどかしさを感じてしまいます。

別の例では、妻はフランス滞在中に、フランス人が主催する文化教室にかよっていました。そこで妻が受けた印象は、とにかくフランス人は作業が早い(教室に来るのが初めてのような人でも)。しかもそれを周りの人と喋りながらやっている。妻は妻の友人(日本人)と受けたのですが、2人とも喋る余裕はなく、黙々とこなしていた。これはフランス語ができるできないではなく(2人ともフランス語できます)、手作業の早さだと妻はいっていました。

考えてみればフランスの人口は日本の約半分ですが、GDPは半分ではありませんね。日本のGDPは中国に抜かれる云々ということが報道を賑わしていますが、もともと日本の1人あたりGDPは決して高くありません。もちろんこれが能力の差としてしまうのは無茶ですけどね。

ちょっと横道にそれましたが、要はこれまで集団の力で勝ち上がり生き残ってきた日本は、これからのさらなる高齢化と人口減で、その集団の力がかつてのように発揮できなくなってきます。

そうすると個人の能力が問われてくると思うのですが、そういった個人の能力って高まっているんでしょうか? あるいは高められているんでしょうか? 

集団の能力強化からから個人の能力強化への転換。これがうまくいかなければ、日本の人口減は縮小へと向かうだけのような気がします。