2011年3月4日金曜日

グローバリゼーションに対する認識の変化

本日(4日)の日経新聞(iPhone版)には、「変わる採用 (下)グローバル競争過熱 企業も大学も改革急務」、「教育を変えるとき 世界で競える個性豊かな『人』づくりを」という2つの記事が掲載されています。

内容は、日本企業が今後海外で積極的に展開していくためには、グローバルな人材が必要とされている。そのようなグローバルな人材は日本人である必要はなく、企業の中には外国人の採用比率の割合を増やしているところもある。そこで日本も世界に通用するグローバルな人材の養成が企業のみならず教育の場でも求められる云々、というものです。

こういった主張は日経に限らず、最近日本国内メディアでしばしば見ることができる論調です。

このような主張がなされるようになった背景には、日本国内でグローバリゼーションに対する認識の変化が起こっていることにあるのではないかと、私は考えます。

グローバリゼーションの定義は様々ですが、ここでは大まかに、冷戦終結以降、アメリカを中心にする新自由主義経済的な考え方に基づく資本主義の世界的な拡大、としておきます。

実際に冷戦終結以降、アメリカの経済は好況の波に乗り順調な成長を成し遂げ、それは2008年のリーマンショックまで続きました。それに対して日本はバブル経済崩壊からなかなか抜け出すことができない失われた10年と呼ばれた深刻な不況に陥っていました。

当時の日本(冷戦崩壊後からリーマンショックまで)は、アメリカ主導のグローバリゼーションに対して、それに適応するのは必然のトレンドと感じつつも、それに対する抵抗感も強く残っていたと思います。IT革命や英語教育の重要性が吹聴されたのは前者の例でありましょうし(実際に使える英語を重視する教育は大学レベルでも積極的に取り入れられるようになりました)、日本企業の買収を積極的に行う外資に対して「ハゲタカ・ファンド」なる形容詞が与えられたり、「反グローバリゼーション」や「代替グローバリゼーション」と呼ばれたイデオロギー的に反発する意見(これは日本だけではありませんが)がでたりしたことは後者の例でしょう。

こうした日本国内のグローバリゼーションに対するアンビバレントな風潮に一定の方向性が与えたのが、小泉構造改革でしょう。これによって日本はアメリカ主導のグローバリゼーションに積極的な方向へと舵を取ることになります。しかしこの構造改革も、「格差の問題」を提起され、イデオロギー的な反発を受けます。

ところがこうしたグローバリゼーションをめぐる認識は、2008年に発生したリーマンショックにより大きく転換させられることを余儀なくされます。BRICsの台頭やG20の開催に象徴的なように、アメリカだけ、あるいは西欧先進国を見ていればよい時代が終わったのです。

これ以降じゃないでしょうか。日本国内でグローバル人材なるものが積極的に唱えられるようになったのは。

もっとも、何をいまさら、という感じがしないでもありません。人材のグローバルな獲得競争はリーマンショック以前から始まっています。スポーツでみても、アメリカの大リーグをみれば一目瞭然でしょう。

こうした日本の遅れの背景には、日本が陥っていた二項対立(ディコトミー)にあるのではないかと思います。2002年末に4年間のフランス滞在(途中一時帰国しましたが)を終えて日本に戻ってきてみると、日本国内の内向きな風潮に驚いた記憶があります。国際社会への関心はアメリカを通してであり,それ以外の世界は東アジア・東南アジアには直接目を向けているようでしたが、それ以外に関心を持っていないようでした(もちろん日本人全員がそうであるわけではありませんが)。つまりディコトミーとは日本かアメリカか(正確に言えばアメリカ主導のグローバリゼーションかでしょうが)、バブルの成功体験からなかなか抜け出せずいつまでも日本が一番とナショナリズム的な感情に浸る人々と、アメリカに依存していれば大丈夫であるからもっとアメリカへ依存することでグローバル化せよという人々という大きく二つの流れがあったように思います。

リーマンショックが日本にもたらしたのは、この二項対立が根底から打ち消されたことです。

この変化がもたらされたのは、中国の台頭に象徴される西欧先進諸国以外の国々の経済的な発展を目の当たりにして、もはや日本が一番とは言い切れなくなり、またその上アメリカに経済的に頼り続けることが無理なことが分かったからです。

グローバル人材への希求は避けて通ることができないことができないと思います。ただしそれは現在すでに世界で行われているグローバルな人材争奪戦へ参加することを意味します。企業は本当にそれだけの覚悟はあるのでしょうか。日本でいう外資のように給与で魅了するようなことを日本企業はできるのでしょうか。日経の記事は個性豊かな「人」づくりを主張していますが、それがいかにこれまでの日本のやり方に異質なことは明らかです。日本企業のメリットは、企業の人材一人一人の個性ではなく、優秀な従業員が多く集っての組織の力にあったわけですから。外国人が日本人のように会社の駒としてその個人的な能力をどこまで使い続けてくれるのか分からないのではないでしょうか。即戦力としての外国人に安易に頼るのではなく、日本人の育成にも目を向ける必要が再度叫ばれるでしょう。

またグローバル人材といいながら、結局は単なる英語使いが求められているようにも思います。これではリーマンショック以前のグローバリゼーションへの認識と変わりません。グローバル人材なる者は、道具としての英語だけではなく、アジアをはじめとする現地の人々への深い理解、つまり異文化への理解が必要とされるでしょう。異文化は日本人が現地に滞在することで経験上学べることではありますが、日本自体が今のような国際社会に対して閉鎖的な状況にあり続けるのであるなら、異文化への適応や理解に多くの時間がかかるだけではなく、異文化に対する抵抗感も高いままなのではないでしょうか。

グローバル化やグローバル人材の養成を本当に進めるのであれば企業の生き残り、という視点だけでは不十分だと思います。闇雲に議論を拡大するのは無責任かもしれませんが、グローバル化に対しては企業のみならず国全体としても取り組むべきと考えます。





2011年2月16日水曜日

コートジボワールは今・・・

中東は盛り上がっていますが、中東が盛り上がったおかげでメディアから(少なくとも日本のメディアから)忘れられている国があります。

西アフリカのコートジボワール。昨年の11月に大統領選挙が行われ野党候補のウワタラが当選となったものの、コートジボワールの憲法評議会はウワタラの当選を無効とし、現職のバグボを当選としてしまいました(憲法評議会のメンバーはバグボに近い人物たちで占められていると伝えられていました)。

国際社会はウワタラの当選を有効とし、バグボに退陣を求めていますが、バグボは全く退陣する気配がありません。アフリカ諸国を中心にバグボに退陣するよう説得しましたが、それでもバグボは大統領の座に居座っています。

まさに袋小路。一時は国際社会から「武力介入を」という声もありましたが、積極的にリスクを背負おうという国はなかなかありません。

そもそもバグボは大統領選挙の実施を延期してきました。ようやく実施されたと思ったらこの有様です。

コートジボワール国内はバグボ支持とウワタラ支持に二分されていますので、チュニジアやエジプトのように独裁政権に国民が一丸となって反旗を翻すということにはなりにくそうですが。

2011年2月14日月曜日

アルジェリアの教訓

実際、アルジェリアでも現在デモが発生しています。
でもその現在進行中のデモとは別に、アルジェリアの過去は、チュニジアから始まった今回の民主化ドミノ騒動で忘れてはいけないと思います。
イスラム原理主義が動く前に軍が動いた。これがチュニジアとエジプトの共通点です。
あるいはイスラム原理主義勢力を動かせないように軍が動いた、と言えるかもしれません。
過去のアルジェリアのケースは全くの逆です。イスラム原理主義が政治の実権を握りそうになってから軍が動いた。軍がイスラム原理主義勢力に対して激烈な掃討作戦を展開し、イスラム原理主義勢力がそれに対抗するという、アルジェリアは未曾有の混乱状況がずっと続いていました。こうしたアルジェリアの混乱は、宗主国であるフランスに飛び火し、パリ、RERサン・ミッシェル駅でのテロ事件等は悲惨な結果をもたらしました。
(世俗的な)軍によるコントロールを確立する。これが今回の事態のキーではなかったでしょうか。軍といっても一枚岩ではないでしょう。イスラム原理主義に近い軍関係者もいたはずでしょう。チュニジアではそういった関係者はエジプトに比べれば少ないでしょうから、エジプトの場合はその辺の見極めが難しかったのではないでしょうか。もちろんムバラクが名誉ある退任を求めたこともあるでしょうけど。
珍しく連続投稿ですね。

最近飲んだワイン



久しぶりにワインネタです。ちょっと気楽なネタいきましょう! 楽しくないとね! 文句ばっかじゃ、いやになりますよね。

それでは、最近飲んで美味しかったものを二つ。最初のがベルノドーの白、次がアラン・グライヨの赤。二本ともフランスのです。赤はローヌ地方のワイン。結構有名な作り手ですが、このキュベは初飲み。結構いけます。シラーを中心に品がよい仕上げです。でも秀逸なのは白。これは尋常ではないですね。ロワールの変わり者としかいいようのない。樹齢百年のシュナン・ブランから収量をしぼってつくられたこのワインの香は素晴らしい・・・。ノン・フィルターなので濁っていますけれど、ちまたで売っている自然派ワインなんて、いかに”自称”自然派なのかわかります。2003年で、もう飲み頃かと思って空けましたが、まだまだ・・・2003はこれだけだけなので、残る在庫は2008、うーん、しばらく飲めないなー。ちなみに二本ともお土産でフランスから買ってきたワインですが、日本でも買えます。日本で買うと結構な値段しますが、フランスで買えばそうでもないんですよ、特に白は。高いワインは美味しくて当たり前、でもワインは高いワインだけではない、が僕のモットーです。語っています・・・

2011年2月9日水曜日

こんな行政で大丈夫か?

居住地の役所で住基カードをつくってきました。

でも、できあがるまでに1時間も待たされる始末・・・

もちろん窓口が混んでいたわけではないですよ。

要は役所の担当の方が、カードの発行手続きの仕方を理解していなかったんですね。

担当の方がカウンターの後ろでどたばたどたばたしているのがみえます

さらには「ここにカードを挿入して パスワードを入力ください」と機械を僕の目の前に持ってくるのですが、パスワードを入力しようにも、その機械にはテンキーがない・・・

僕が「そっちの機械じゃないでしょうか」と指摘する始末。もちろん僕は役所の関係者でないので、どの機械が必要かは知りませんが、そんなもん素人でもわかりますよ。だって向こうの機械にはテンキーがあるんですから。

そんなこんなで、ようやくカード発行

その直接担当した方含め係の方たちは全員(といっても2名だけですが)平謝り

もちろん怒りはしませんでしたよ。なんかその担当の方が気の毒になってきちゃって。

つまり彼は複雑な手順が理解できていなかったのでしょう。そういった方を担当にしてしまうようなことが問題かなとも思いますが。

それよりもむしろ心配になりました。日本のことが・・・(ちょっとオーバーですが)

というのは、日本はこれまで個人の能力よりも集団の能力によって国際社会の中で勝ち上がってきたと思うんですね。日本人は「和」を大切にします。集団行動を優先する教育をしています(学校だけでなく社会でも)。マニュアルがあればそれにきちんとしたがって物事を正確に行うことのできる高い能力を持っていると思います。

でもフランスにいるとフランス人の個々の能力って、日本人よりも高いな、と感じることがありました。まあこれま科学的なデータによって裏付けされているわけではなく、あくまでも印象ですが・・・

卑近な例ですと、レストランです。お昼のランチ時の混んでいるとき、フランスのカフェに入ると、日本に比べると驚くほどの少ない人数で給仕人たちが忙しそうに働いています。彼らが足を止めているときはないでしょう。人数が少ないからと言って、サービスが悪いとか待たされるということは、ほとんどありません。

ところが日本にもどってみると、レストラン(食堂でもいいですが)に給仕人が多いこと。お昼時のピークでも彼らの動きは緩慢です。別に彼らが怠けているといいたいわけではありません。彼らも一生懸命やっているのはわかります。でもフランスのカフェの給仕人たちの機敏な動きをみていると、もどかしさを感じてしまいます。

別の例では、妻はフランス滞在中に、フランス人が主催する文化教室にかよっていました。そこで妻が受けた印象は、とにかくフランス人は作業が早い(教室に来るのが初めてのような人でも)。しかもそれを周りの人と喋りながらやっている。妻は妻の友人(日本人)と受けたのですが、2人とも喋る余裕はなく、黙々とこなしていた。これはフランス語ができるできないではなく(2人ともフランス語できます)、手作業の早さだと妻はいっていました。

考えてみればフランスの人口は日本の約半分ですが、GDPは半分ではありませんね。日本のGDPは中国に抜かれる云々ということが報道を賑わしていますが、もともと日本の1人あたりGDPは決して高くありません。もちろんこれが能力の差としてしまうのは無茶ですけどね。

ちょっと横道にそれましたが、要はこれまで集団の力で勝ち上がり生き残ってきた日本は、これからのさらなる高齢化と人口減で、その集団の力がかつてのように発揮できなくなってきます。

そうすると個人の能力が問われてくると思うのですが、そういった個人の能力って高まっているんでしょうか? あるいは高められているんでしょうか? 

集団の能力強化からから個人の能力強化への転換。これがうまくいかなければ、日本の人口減は縮小へと向かうだけのような気がします。

2010年10月19日火曜日

相変わらずダイナミックなフランス、日本は?

それにつけてもフランスの労組はすごいですね。多少やり過ぎの感がしなくもないですが、非常に創造的ですね。石油貯蔵施設の組合がストに入るとは予想していませんでした。

これを労組の暴走だととらえる日本人も多いのではないかと思います。でも僕としては民主主義だなと、改めて感じます。

「マニフェスト」などという仰々しい外来語を用いて選挙民に約束したことを、ことごとく反故にする現在の日本の政権は選挙さえ終わればこっちのものという、国民や民主主義をないがしろにしてひたすら権力の維持に奔走する姿に、情けなさを通り越して卑しさを感じるこの頃です。

問題なのは、現在の日本では、選挙以外で国民の意思を表明する機会がほとんど無いことです。強いてあげればマスコミの世論調査ですが、その調査対象の多くは個別の政策ではなく、政権全体への印象を問うものです。

そうした曖昧な調査ですから、「首相の人柄が信頼できる」などという、政策とほとんど関係ない項目で政権への支持が決まってしまいます。こういう項目は全くくだらないですね。それに答えた人々は首相とが話をしたことがあるのでしょうか。現在の管首相が人柄がよいかどうかどうかは私にはわかりかねますが、人柄云々はどうでもいいではないですか。要は国民が合理的と判断でいる政策を実行できるか否かですよね。

話が横道にそれましたが、もっと日本人は個別の政策にシビアになった方がいいのではないでしょうか。首相の人柄が信頼で入るなどといって、お任せにしてしまうのはやめにしてはどうでしょうか。フランス並みとは言わないまでも、個々の政策に対して国民から明確な意思表示ができるような方策を考えるべきではないでしょうか。

選挙をやれば民主主義なのではなく、国民の意思が個々の政策に反映されてこそ民主主義なのですから。

2010年6月29日火曜日

あまりにも情けない民主党

更新が滞っていました。
フランス滞在のまとめをするといって、まだでした。
それはまたいずれの機会にして・・・

今日は日本の政治について、発言します。


民主党はあまりに情けない。管総理はじめ執行部は何を考えているのか。

ここ数日の言動をみていると、彼らは何のために選挙を戦っているのか、と改めて考えさせる。

現在の日本の財政状況を考えれば、増税は仕方ない、と考える。それが消費税増税というかたちがもっとも適切かは意見があるかもしれないが、少なくとも欧州諸国に比べれば日本の消費税額は低いのであるから検討する余地はあろう。

それゆえに、管総理が参議院選直前に消費税増に言及したことは勇気のあることであるし、評価したいと思う。

このことを昨年の衆議院選の公約違反だと批判するのは適当ではない。野党時代でもわかることのできたことであるが、危機はいつ起こるかわからない。過去の公約に縛られ続けて、それが選挙目当ての口当たりのよい公約であればなおさら、そのような公約を守り通すことが日本にとっていいこととは思えない。

それでは嘘つきになる、という意見もあるであろう。私もそのような公約を掲げて勝った後に、やっぱりできません、では嘘つきだと思う。それでも、できないことはできない、とはっきりと言うべきだとも思う。できないとわかっていることを、できるように頑張りますというのは、ごまかし以外の何ものでもない。

もし嘘つきになることに後ろめたさを感じるのであれば(まず感じていないと思うが)、衆議院を解散してもう一度総選挙を戦ったらどうであろうか。それぐらいの潔さがないと、国民が期待した変革を実現する党とは思えない。

ここ数日、管総理をはじめとして民主党は消費税増の話をトーンダウンしてきた。内閣支持率が急速に落ちたからであろうか。また、なめることのできない飴をぶら下げるような選挙をするのか。

内閣総理大臣のような地位にある人間を、我々は政治指導者と呼ぶ。指導者は国民からの支持を得なければならない。でもそのために国民に迎合しては指導者とはいえない。指導者とあろうとすれば時には国民に対して国民が嫌がることもしなければならない。

そのような場合、指導者にとって重要なことは、国民が嫌がることをきちんと説明して納得させられるか、であろう。支持率が10数パーセント程度落ちたからといって、すぐ引っ込めてしまうような情けなさではとても国民を説得するようなことができるとは思えない。

昨年の総選挙で国民は民主党を勝たせた、民主党が勝ったのではない、国民が民主党を勝たせたのだ。

昨年の民主党は、選挙に勝つことのみを「目的」にしていた。しかし国民はそのような民主党を勝たせたのは、その目的を果たさせるためではない、民主党に新しい与党として日本を変えて欲しかったから勝たせたと思う。国民は民主党が変化をもたらすための「手段」として国家権力を与えたのである。

残念ながら「手段」としての国家権力は有効に使われないまま、1年が過ぎ去ろうとしている。そればかりか依然として「目的」としての国家権力確保にばかり目が向いている。

こんな正論を言わせたくなるような今の状況は本当に情けない、と思う。